『チャーチル 不屈のリーダーシップ』 ~その1~

少々流行から遅れ気味なのだが、『ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男』が上映されている。
この作品は日本人アーティストの辻一弘氏が、第90回アカデミー賞のメイクアップ&ヘアスタイリング賞を受賞したことでも話題を呼んでいる。

www.churchill-movie.jp

近いうちに見に行こうと思っているので、予備知識を仕入れようとチャーチルの伝記を読んでいる。 もともとチャーチルには興味があった。というのも、『理科系の作文技術』の冒頭でチャーチルのエピソードが紹介されていたからだ。 チャーチルは戦時中、文書の煩雑さに辟易し、文書作成の心構えを次のように各部局に指示したらしい。

  1. 報告書は、要点をそれぞれ短い、歯切れのいいパラグラフにまとめて書け。
  2. 複雑な要因の分析にもとづく報告や、統計にもとづく報告では、要因の分析や統計は付録とせよ。
  3. 正式の報告書でなく見出しだけを並べたメモを用意し、必要に応じて口頭で補ったほうがいい場合が多い。
  4. 次のような言い方はやめよう:「次の諸点を心にとどめておくことも重要である」、「~を実行する可能性も考慮すべきである」。この種のもってまわった言い廻しは埋草に過ぎない。省くか、一言で言い切れ。

思い切って、短い、ぱっと意味の通じる言い方を使え。くだけすぎた言い方でもかまわない。 私の言うように書いた報告書は、一見、官庁用語をならべ立てた文書とくらべて荒っぽいかもしれない。しかし,時間はうんと節約できるし、真の要点だけを簡潔に述べる訓練は考えを明確にするにも役立つ。

埋草(うめくさ)とは、雑誌や新聞の余白を埋めるのに使う短い記事のことで、重要度の低い部分ということである。 具体的なテクニックまで指示できるということから、チャーチル自身もそれらを意識していたと考えられる。 少し調べてみると、チャーチルは政治家にもかかわらずノーベル文学賞をもらっていることが分かった。 これらのエピソードから、相当言葉に気を遣っていた人物であることがうかがえる。(もっとも本人が欲しかったのは平和賞であり、文学賞には不満気だったらしいのだが)

私たちは言葉を使わずには生きていくことはできない。 時に言葉に傷つけられられながらも、チャーチルは言葉で自らを鼓舞し、言葉で人々を勇気づけた。 言葉によって対ヒトラーの旗印となり、イギリスを勝利に導いたチャーチルの人生を知っておいて損はないだろう。

ウィンストン・レナード・スペンサー=チャーチルは、1874年に保守党の政治家であるランドルフチャーチル卿と、アメリカ人投機家レナード・ジェロームの娘であるジャネット・ジェロームの間に生を受けた。

学校の成績は悪く、父親の母校であるイートン校には進学せずにハーロー校へ進学した。 ハーロー校でも落ちこぼれであり、ラテン語ギリシャ語も上手とは言えなかった。 その代わりにチャーチルは英語を極めることになる。

(ハーロー校での3年間で)古典の教養は身につけることができなかったのだが、チャーチルはハロー校ではるかに有益で貴重な能力を習得できた。英語での執筆と弁論に熟達したのである。(中略)言葉の使い方に精通しただけでなく、名人と言えるほどになった。そして英語の言葉を愛してもいた。政治家としての能力を磨いていく中で、英語の言葉がチャーチルの血となり肉となっていった。イギリスの政治家のなかで、英語をこれほど愛した人はいないし、キャリアを築くために、そしてキャリアが傷ついたときに名誉を回復するために、英語の言葉の力をここまで一貫して利用した人もいない。(中略)新聞や雑誌に書いた記事は数千に及び、著書は40点を超える。そのうちいくつかは極めて長い。『第二次世界大戦』は205万語を超える。ギボンの『ローマ帝国衰亡史』ですら110万語である。

そしてハーロー校を卒業後、18歳のチャーチルは3度目の受験でサンドハースト王立陸軍士官学校に合格する。 士官学校を経て軍に入ったチャーチルは戦争に行き、そこでの体験を文章にすることで活動資金を稼いでいく。

理科系の作文技術 (中公新書 (624))

理科系の作文技術 (中公新書 (624))